しっかりとした自己を持っている人は、他人をコントロールしようとはしませんし、他人に過度に干渉することはありません。また、賢明な人は、傲慢に陥ることを避けるため、何かについて「おまえ間違っている=自分は正しい」と主張することについて、自然と慎重になります。
(yellowblogからリブログ)
 別にこれ就活の話だけじゃなくて。ブログとか2ちゃんまとめサイトとかニュースとか読むでしょ、音楽とか聞くでしょ、本とか読むでしょ、Twitterでなんか書くでしょ。その時自分がどういうスタンスでいるかなって思うと。児童ポルノに抵触した写真集の表紙、高校の暴力問題、アイドルの女の子が坊主にしたこと、女子柔道日本代表の体罰、遠隔操作ウイルス事件の捜査あやしくない?、小学5年生の男の子が電車に飛び込んだなんて痛ましすぎる、そんな風に1週間単位で「社会を語る」ためのトピックを使い捨てて分析していく。
「これは良記事」「必読!」「これはいい分析」「日本人として恥ずかしい」「マスコミの倫理観を疑う」、そういうコメントを、まるで自分には関係ないように、つけていく作業で満たされるものって。うまいこと言ってやりたい、の先、もしかして、その対象への理解を深めることじゃなくて、自分で自分の吐き出した言葉に満足したい、あわよくば他人に評価されたい、なんじゃないの。それが悪いわけじゃなくてその自覚の度合いですよ。だってこの文章もそうだからね! すべてブーメラン。
(hsmtからリブログ)
 片端から否定していくことで自意識を保つ、のは誰にでも心当たりがあることだと思う。俺はこいつらとは違う、本当にすきなものはこれじゃない、やりたいことはこれじゃない、望むものはこれじゃない、理想のものはこれじゃない、こんなところでくすぶってる人間じゃない。否定を積み上げることでしか自分を表現できないのって、冷静に考えるとかなり薄ら寒いけど珍しいことじゃない。「外側」として、プレイヤーにならないで好き勝手言える。分析しちゃう。「答えのない質問って、正解がないから投げた人が勝つわけですよ」。ねー、そっちの方がかっこいいって、思ってるの? もしかして。そもそも、かっこいいって何だっけ。
(hsmtからリブログ)
世間でいう「大人」って、「兵隊」みたいな意味だと思う。
以前うちの母が「好きな物が同じより、嫌いな物や許せないことの近い人と結婚した方がうまくいく」と言ってたというツイに「共通の敵を作れば結託できますからね!」というリプが飛んできて、あーこういう原則に基づいて人間関係を構築する人もいるんだなあ、と思ってそっとブロックした。
(yellowblogからリブログ)

日本人は、古来よりお地蔵様にお花を添えて、頭に水をかけてきた。神社のような地域の共同体ではない。冠婚葬祭の儀礼でもない。道ばたにあるお地蔵様に、だれともなく手を合わせ、敬ってきた。それは匿名の、個人的な祈りである。「神様救ってください」でも、「天気を良くしてください」でも、「たたらないでください」でもない。その気持ちを言葉に表せないほど、ごく自然な祈りである。

お地蔵様への祈りと、オタクのコンテンツへの愛着は似ている。

(katoyuuからリブログ)
家庭崩壊していくのを親が食い止めようとすると高確率で「季節の催し事や記念日を様式通りに楽しんだり旅行体験を共有する」という方向に行って、その強迫観念めいた「これは様式通りだから楽しい。楽しく無いという方が間違っている」って空気で家庭崩壊が更に進行する
(katoyuuからリブログ)
お子様ランチに「こんなもんガキの食いもんだ!」って怒ったって仕方ねえだろ? それと同じだ。 お子様ランチに怒るべきは「ハタがたってねえ!」とか「おもちゃがついてこない!」であってアジや量にじゃない。
(katoyuuからリブログ)
MOON」というゲームは、困っている人を助けたりするとラブ(という名の経験値)がもらえるというシステム
した。だから基本的には「よーし人を助けちゃうぞ」と思って、助けて、ラブを得るものなんだけど、たまに、こっちが別に困っている人を助けたつもりはなく
てもラブ認定されることがあって、それがすごく新鮮だったのです。で、それも「人のお説教をきく」とか、わりとしょーもないことだったりして、でもそれが
ラブですよといわれると妙に納得してしまう。で、あ、なんかこれすげえな、と思ったのです。行為の主体である自分がラブかどうかを決めるんじゃなくて、関
係性の中から遡及的に見いだされたもの、それがラブ。ラブは演じるものじゃない、関係性の中から見いだされるもの! それはどう考えても人生の真実のひとつで、しかもそれを言葉で説明されるのではなく、ゲームというメディアを通して伝えられたというのが、ひじょうにエポックな体験であり、その感覚は、いまだラブというわかったよーなわからんよーなものを考えるときに、たしかな礎となるべくわたしの中に横たわっておるのです。
(kotomoからリブログ)

任天堂ってレースゲームを何本も出してるじゃないですか。
『マリオカート』とか、『F-ZERO』とか。

そのときの話なんですが、手を変え品を変え、レースゲームを出していくときに、いつも、「順位をなくしたい」と思うそうなんです。

で、それでがんばって作るんだけども、やっぱりレースゲームは順位をつけないと、レースゲームにならないっていう結論に
毎回行き着いて、順位がつくんだと。で、順位がついちゃってるっていうことに、宮本さんは納得できてないんだと。

いつか、順位のないレースゲームを作りたくって、そうなったときに初めて、レースゲームってのは、ひとつ進歩するんだって言ってたんですよね。