この「楽しい」という状態が、非常に抽象的であって、具体的にどういう状態なのか、説明が難しい。楽しいというのは、笑うことだ、と簡単にはいえない。楽しくて、泣くことだってある。
(tamaribaからリブログ)
「人間ってのは、フリをした通りの者になるので、何のフリをするか気をつけろ」
(mashiro0701からリブログ)
大人も本当は分かっていないのだという事実に気付かないまま育つと18才くらいで困る
Twitter / KEMONO (via jinon) (via nozma) (via yellowblog) (via gkojay) (via gkojax) (via spring-mu10) (via mashiro0701)
(mashiro0701からリブログ)

4年の放浪の果て、男は息子と一緒に女を捜しはじめる。
そしてヒューストンの下町の「のぞき部屋」で彼女が働いているのを見つける。
男は、女とそこで客として再会するのだ。
愛を復活させないように心を閉ざして、ストイックに再会するのだ。

「のぞき部屋」では客側から女を見ることが出来ても、向こうからは客の姿が見えない。
つまりはマジックミラー。
暗い方から明るい方を見ることはできるが、逆に明るい方から見るとガラスは鏡になっていて暗い方を見ることはできない。
写るのは自分の姿だけ。
向こうからは決して男の姿は見えない。常に一方通行。
声がマイクを通じて伝わるだけだ。


男は、ある友人の話として男と女の話を語る。
女は途中で話しているのが誰だか気がつく。
男は女の部屋の明かりを消させ、自分の顔に明かりを当てる。
女はマジックミラーの向こうに男の姿を見る。
そして逆に、男は女の姿を、見失う・・・。


名人ヴィム・ヴェンダーズはこのシーンだけで「男と女の愛とは何か」を描ききった。
いままで何千という映画が苦労して描いてきた、男女の愛のすれ違い、男と女の距離感、そして「愛のように見えたものの姿」を見事に象徴してみせたのだ。たった一場面で。


マジックミラーには自分の顔が写っている。
ぼんやり見える女の顔に重なって、自分の顔だけがはっきり見える。
なんてすごい場面だろう。
男の、女への「愛」を象徴するかのようだ。


相手への愛のように見えたもの。
それは「自分への愛」なのだ。

女を愛していたように見えて、男は「自分を愛していた」のだ。
自分が可愛かったのだ。
自己愛であり自己憐憫でありエゴなのだ。
愛している自分、愛しすぎている自分を愛しているのだ。
自分が嫉妬する分だけ、相手にも嫉妬して欲しいのだ。
自分が好きな分だけ、相手にも好きを求めるのだ。
自分が苦しんでいる分だけ、相手にも苦しみを与えたいのだ。
相手が傷つくことより、自分が傷つかないことの方に本当は関心があるのだ。

そう、それは自己愛にすぎない。

ボクたちは、わりと気軽に「愛」を口にする。
でも、それは決して相手のためではない。
自分のためなのだ。
そもそもそのレベルの愛とは、すべて自分のためだけのものなのだ。

「パリ、テキサス」|座右のシネマ (via handa) (via gkojay) (via urza358) (via konishiroku) (via fialux) (via axl5727) (via darylfranz) (via indivi) (via yksk) (via reretlet) (via mcsgsym) (via petapeta) (via lovecake) (via sakimura) (via yaruo) (via yaruolikes) (via yaruo)
(yaruoからリブログ)
TwitterやFacebookから、低年齢層の多くが離れつつあるように思います。悪い面が見えすぎていて、僕らのいる場所じゃないんじゃないかと感じているのではないでしょうか。人との関係が増えれば増えるほど、自分の周囲のネットワーク内で「闘争」を目の当たりにする可能性が指数的に増えていく。TwitterからFacebook、さらにLINEへ、というクローズドで個別のネットワークへ移っていく傾向は、みんながリスクを避けて、平和に暮らそうとしている心の表れのように思います。気心が知れている狭くて小さいネットワークの方が、空気を読みやすく居心地がいいと感じる人も多いだろうと考えています。
(kotoripiyopiyoからリブログ)

この対談を受けるにあたって、これまでされてきた対談を読みました。そしたらみなさん、表現の社会的な役割みたいなものをお話になっていたので考えてみたんですけど、たぶんぼくには、社会に貢献するために振る舞えることはほとんどありません。

目にみえる形で役には立たないし、コスト的にも時代にあっていない。さまざまな面で明らかに不毛なものなんですが、その不毛なことを誰かがやり続けることが、どこかで役に立っていることもあるのではないかと、かすかに信じて作り続けています。

今野 締め切り前に完成したと思えることはあまりないですね。いつもやりたいところが残っちゃうんですよ。というのも、締め切りに間に合うように作っていても、時間に余裕ができたら新しいことをはじめてしまうんです。複雑な構造にしてみるとか、イメージを足してみたり、あるいは引いてみたり。必ずしも作品としての質を上げるというわけじゃないんですけどね。結果的にいつもひいひい言いながら締め切りを迎えています。完成させることよりも、時間内で何ができるかのほうが大きいのかなあ。
 

荒井 では、内的な衝動としての終わりって、めったにないんですね。

 
今野 そうですね。でもそれは「次の作品ではこういうことをやってみよう」って、前後の繋がりがあるからなんだと思います。だからずっと作っているのかなって思います。

日本を離れてわざわざ考えるというのも
なんだかおもしろいものだが、
「ことばづかい」って、大事なんだよなぁ、と。

篠原ともえさんが、わぁわぁとやっていたころ、
この人は、こんなに妙なかっこうして、
やたらににぎやかに騒ぎまくってるけど、
どうしていやな感じがないんだろうと考えた。
それは、すぐにわかった。
「ていねいなことばづかいができていた」のである。
過剰というほどではなく、丁寧語をつかっていた。
これだけで、なんとなく
その人の大事にしているものがわかるような気がする。

存在というか、姿や役割がへんに見えるのに、
「ことばづかい」がていねいな人という系譜があって。
「さかなクン」さんも、そういう分類に入ると思う。
最近では、壇蜜さんもそのジャンルなんじゃないかな。

悪いことばをつかうな、という教えは、
聖書の時代、いやもっと前からずっとあるだろう。
ていねいなことばをつかって
他人に見せるために「取り繕え」
ということではないのだ。

「どういう人であるか」というよりも、
「どういう人でありたいか」という気持ちが、
つかっていることばになって表われるのだと思う。
「どういう人でありたいか」という理想の持ち方は、
かなり重要な生き方に直結しているのではないかな。

生きていると、わからないことだらけだ。
知れば知るほど、わからないことが増えていく。
それは、まったくよろしいことなのだと思う。
そのうえで、「どういう人でありたいか」が、
とても大事と思えるのだ。
その「ありたい人」に、じぶんも、他の人びとも、
似てくるのではないだろうか。
遠い国までやってきて、そんなことを考えていた。
空や海や島は、「ことばづかい」がきれいだなぁと思う。 

(railroad10111からリブログ)

アメリカの18歳以上の30%は全く飲まない人で、30%は週1杯未満しか飲まない人。逆にトップ10%(2400万人)は週平均74杯で、1日10杯以上飲んでいる。


週74杯というと、ジャックダニエル750ml瓶4本半ちょい。ワインだと18本。ビールだと24本入りケース3個分に相当する。

1日2杯飲む人はトップ20%。

トップ10%が次の10%の水準まで飲酒量を減らすだけで、アルコール産業全体の売上げが60%落ちる計算。― Washington Post

Long Tail World: なるほど納得。アメリカ人の飲酒量チャート:US Top 10% Adults Consume 74 Alcoholic Drinks Per Week (via do-nothing)

週74杯というと、ジャックダニエル750ml瓶4本半ちょい。ワインだと18本。ビールだと24本入りケース3個分に相当する。

人間やめている量に思える

(via bgnori) (via yellowblog) (via himmelkei)
(himmelkeiからリブログ)
学ぶ人は、自分が変わる事が目標であり、誰が正しいとか正しくないとか、上とか下とか好きとか嫌いとか関係なく、学んだかどうかに貪欲にフォーカスしている。学ばない人は、批判を通じて自分が他人より優れていると主張し、「そうですね」と共感してくれる人を集める事に貪欲にフォーカスしている。
(kyohei1989からリブログ)